高校時代の成績
1960(昭和35年)
第2回HG旗争奪大会
枦山は高校入学直後のHG旗争奪大会(現NHK旗争奪大会)から出場。ベスト4進出に貢献した。
【1回戦】
鹿児島商工 002 000 250=9
谷山 003 000 000=3
(鹿)坂元、枦山ー松井
(谷)高橋、川畑ー上山、肥後
▽二塁打 田村、藤崎(鹿)
【2回戦】
甲南 000 010 000=1
鹿児島商工 000 001 02X=3
(甲)浜田ー山下
(鹿)枦山、本房ー松井
▽三塁打 田村(鹿)▽二塁打 図師(鹿)
【準決勝】
鹿児島商工 012 020 000=5
鹿児島商 700 004 10X=12
(工)坂元、本房、枦山ー松井
(商)島崎、佐藤、福永ー井戸口
▽本塁打 石黒(工)篠原(商)
▽三塁打 田中(商)▽二塁打 藤崎(工)池田(商)
第42回全国高校野球選手権鹿児島大会
1年生の夏は、3回戦でこの年優勝した出水商戦に登板、1失点完投と好投するも惜敗した。
【2回戦】
鹿児島商工 200 001 103=7
伊集院 000 000 000=0
(鹿)本房ー松井
(伊)川畑ー馬篭
▽三塁打 藤崎(鹿)▽二塁打 田村(鹿)
【3回戦】
鹿児島商工 000 000 100=1
出水商 020 000 00X=2
(鹿)枦山ー松井
(出)堤田ー西
▽二塁打 柿本、松永(出)
第27回九州高校野球鹿児島県予選(秋)
新チームとして迎えた1年生秋の大会は主に一塁手として出場、準決勝の鹿児島玉龍戦は2安打を放つも敗退。
【2回戦】
鹿児島商工 103 000 020=6
指宿 000 101 020=4
(鹿)松井ー門川
(指)本田ー室之園
▽二塁打 本房(鹿)河野(指)
【3回戦】
川内商工 000 000 000=0
鹿児島商工 000 300 00X=3
(川)早坂ー貴島
(鹿)坂元、松井ー門川
▽二塁打 松井(鹿)
【準々決勝】
鹿児島商工 000 002 011=4
照国商 000 000 000=0
(鹿)松井ー門川
(照)武田、中川ー原田
▽二塁打 宮脇、堀之内(照)
【準決勝】
鹿児島玉龍 000 202 020=6
鹿児島商工 000 000 000=0
(玉)中村ー斎藤
(鹿)松井、坂元、松井ー門川
▽三塁打 村岡(玉)▽二塁打 門川、枦山(鹿)
1961(昭和36年)
2年春の九州大会予選は投手、一塁手として出場。高校時代のキャリアハイとなる決勝進出を果たすも、当時盤石の強さを誇った鹿児島商に敗戦。
第28回九州高校野球鹿児島県予選(春)
【2回戦】
国分 000 00=0
鹿児島商工 141 22=10
(5回コールド)
(国)吉元ー谷口
(鹿)松井ー門川
【3回戦】
鹿児島商工 002 001 010=4
加世田 100 000 000=1
(鹿)松井ー門川
(加)出来、宮脇ー木戸
▽三塁打 田村(鹿)▽二塁打 今村(鹿)
【準々決勝】
薩南工 000 100 001=2
鹿児島商工 002 020 00X=4
(薩)野田、安藤ー柏原
(鹿)枦山、松井ー門川
▽二塁打 白沢(薩)
【準決勝】
鹿児島工 000 003 010=4
鹿児島商工 000 110 30X=5
(工)是枝、福永ー宮
(商)松井ー門川
▽三塁打 田村(商)▽二塁打 東小薗、宮、東園(工)今村2、枦山(商)
【決勝】
鹿児島商工 000 110 000=2
鹿児島商 120 010 01X=5
(工)枦山、松井ー門川
(商)浜崎、福永、脇元ー井戸口
▽本塁打 井戸口(商)
▽三塁打 中原(商)二塁打 下須崎(商)
第3回HG旗争奪大会
夏の前哨戦となるHG旗は1回戦で鹿児島玉龍に敗退。捕手枦山としての記録が残っている。
【1回戦】
鹿児島玉龍 000 001 320=6
鹿児島商工 002 100 000=3
(玉)中村ー斎藤
(鹿)中馬、下酔尾ー枦山
▽二塁打 野元、中村、太田(玉)増留、成元(鹿)
第43回全国高校野球選手権鹿児島大会
2年夏の夏は投手として活躍。ベスト4へ進出するも鹿実に敗戦。
【2回戦】
串良商 000 000 100=1
鹿児島商工 200 220 00X=6
(串)松本、上田、松本ー日高
(鹿)松井、枦山ー門川
▽二塁打 松本、島本(串)
【3回戦】
川内 101 020 000=4
鹿児島商工 030 000 002=5
(川)一松、橋野ー山下
(鹿)中馬、枦山ー門川
▽三塁打 鮫島(川)▽二塁打 福山、鳥巣(川)今村(鹿)
【準々決勝】
指宿 000 000 0=0
鹿児島商工 010 402 X=7
(7回コールド)
(指)河野、本田、河野ー室之園
(鹿)松井、枦山ー門川
【準決勝】
鹿児島実 003 100 000=4
鹿児島商工 001 000 100=2
(実)村脇ー篠原
(商)枦山、中馬ー門川
▽三塁打 鶴田(商)▽二塁打 今田、宮ノ内(実)門川、本房、松井(商)
第29回九州高校野球鹿児島県予選(秋)
最上級生として迎えた2年秋の九州大会予選は投打に活躍。ベスト4へ進出するも、準決勝で外木場義郎(出水ー電電九州ー広島東洋カープ)を擁する出水に敗退。
【2回戦】
鹿児島商工 850 00=13
川内商工 000 00=0
(鹿)下酔尾、枦山、中馬ー門川
(川)中西、原ー松永
▽三塁打 成元、枦山(鹿)二塁打 鶴田(鹿)
【3回戦】
加治木 100 000 0=1
鹿児島商工 034 300 X=10
(7回コールド)
(加)深江、江口ー池田、竹内
(鹿)下酔尾、枦山ー門川
▽二塁打 坂元(鹿)中島、田ノ上(加)
【準々決勝】
鹿児島実 000 000 000=0
鹿児島商工 000 041 000=5
(実)藤田、小辻ー下津、林
(商)枦山ー門川
▽三塁打 北園(商)▽二塁打 藤田(実)
【準決勝】
出水 000 610 002=9
鹿児島商工 001 100 011=4
(出)外木場、野村ー釜
(鹿)下酔尾、枦山、中馬ー門川
▽二塁打 溝口、野村(出)成元、中馬、枦山(鹿)
1962(昭和37年)
第30回九州高校野球鹿児島県予選(春)
3年春の九州大会予選は主戦投手として活躍するも準々決勝で鹿児島商に敗戦。
【2回戦】
国分 000 00=0
鹿児島商工 410 41=10
(5回コールド)
(国)吉元ー指宿
(鹿)枦山ー鶴田
▽三塁打 中尾、枦山(鹿)
【3回戦】
鹿児島商工 202 200 000=6
指宿 100 000 000=1
(鹿)枦山ー鶴田
(指)秋元ー田之畑
▽三塁打 成元(鹿)▽二塁打 枦山(鹿)
【準々決勝】
鹿児島商 111 102 001=7
鹿児島商工 000 003 010=4
(商)浜崎ー堀之内
(工)枦山、下酔野ー鶴田
▽二塁打 濵﨑2、前畑(商)小野(工)
第4回HG旗争奪大会
【1回戦】
照国 000 000 000=0
鹿児島商工 000 030 00X=3
(照)迫田七、大重、山路、迫田重ー原田
(鹿)内村、下酔野ー池田
▽二塁打 町田(照)
【2回戦】
鹿児島玉龍 100 000 000=1
鹿児島商工 000 000 000=0
(玉)中村征ー折橋
(商)中馬、枦山ー池田
第44回全国高校野球選手権鹿児島大会
3年夏の大会は選手登録にミスがあり放棄試合となった。
【2回戦】
川辺 9-0 鹿児島商工(放棄試合)
昭和47年秋、稲富監督の後を受け監督就任
昭和四十五年、鹿商工は夏の県大会を制し、念願の甲子園にコマを進める。しかし初戦で江津工(西中国)に0-2で敗れた。
「上がってしまい、ほとんど覚えていない」と言うのは、その時のエースで、現ヤクルトスワローズトレーニングコーチの上水流洋さん(40)。稲富監督については「考える投球やボールの話し方を教わった。おれについて来いタイプ」と信頼を寄せた。
しかし喜びもつかの間、四十七年、稲富監督が退任、再び監督探しが始まる。野村次丸部長=当時=の条件は「熱心さ、勝負運、作成のうまさ、子供を見る眼力」。
そして、そのメガネにかなったのは、投手出身で稲富監督を手伝っていた枦山智博現監督(50)だった。「捕手出身から選ぼうとしたが、枦山は体がすごく頑丈。負けてケロッとしているようなやつではなかった」と粘り強さにかけようとした。
しかし時任紹彦校長(故人=克𣈱現校長の父)は「あまりいいイメージを持っておらず、放棄試合の時の選手、縁起でもないとも言った」(野村さん)。放棄試合の時のエースは枦山監督だった。野村さんは「普通の男では駄目です。やんちゃで、ばかふともんでないと勝てませんよ」と激しく切り返した。約一カ月の時を経て、時任校長はようやくうなずいた。
稲富監督を敬愛し、今の自分の戦いぶりを「稲富野球ですよ」と言い切る「枦山監督」が誕生したのは四十七年秋だった。
~1994(平成6年)8月 南日本新聞~
福岡ー田村バッテリーで甲子園準優勝
勝利が決まった瞬間、指揮官は歓喜する選手たちを見つめるだけ。「闘志がわずかに上回っていた」。淡々と話し、苦しんでつかんだ勝利の余韻に浸った。
甲子園の切符をかけたライバル・鹿児島実との天王山。「五、六点勝負」との読み通り、序盤から打ち合い。「ポイントは初回だった」と振り返る。
いきなり1点を取られても選手たちは平然としている。「なんとかやってくれる」との期待通り、その裏すぐに3点を奪い返した。「精神的にたくましくなった。守りの野球から変わりつつある」と目を細める。
新チーム結成時は福岡真一郎~田村恵のバッテリーばかり目立った。二人の陰に隠れがちな他の選手たち。「おまえたちもヒーローになってみろ」とハッパをかけたことも。その選手たちの活躍で強打・鹿児島実のお株を奪う12安打、全員でつかんだ勝利だった。
今年四月、鹿児島商工から校名変更。甲子園に初めて「樟南」の文字が躍る。「まず一勝。名前を覚えてもらい応援してもらう」。「そろそろ優勝旗を」と県民の期待は高まる一方だが、「持てる力を全部出し切るだけ」と気負いはない。
野球部を率いて二十二年。その間、甲子園に春夏十四回出場、ベスト8にも進出した。今ではすっかり全国区の顔。それでも「技術的な長所はもちろんだが、人間的な長所を伸ばす」モットーは変わらない。
自宅を「魚見寮」として開放、部員四十八人と寝食をともにする。趣味のゴルフも「土・日は試合が多く、なかなかやる暇がなくて」と苦笑する。文字通り野球漬けの毎日だ。
鹿児島商工卒。社会人軟式で投手として国体優勝した。鹿児島市魚見町に妻・ミリ子さん(50)、長女・博美さん(25)と暮らす。五十歳
~1994(平成6年)7月 南日本新聞~
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